映画版「夏への扉」を観てきました。
アメリカのSF作家、ロバート・A・ハインラインが1956年に書きあげ、日本では1958年に講談社から刊行(個人的にはハヤカワ文庫のイメージですが)された古典SFの傑作です。
私は中学2年生の時に、この小説を読み、それ以降何度もどころか何十回と、特に自分が「冬にいるなぁ」と思う時には読み返している偏愛する小説です。
私が高校生の頃「オールタイムベストSF」では1位になっていたとはいえ、もう60年以上前の作品(調べてみると2012年にアメリカのローカス誌が選ぶオールタイムベストSFでは61位でした)、「タイムトラベルもの」として昔は必読書と言われたくらいですが、この60年でタイムトラベル、タイムリープ、タイムトリップものなんて山ほど産み出されています。
わざわざそんな古典作品を映画化、しかも舞台を日本に置き換えてなんて「失敗する映画」の典型やないかと思いつつ、公開から少し観るのを躊躇っていたのですが……
ごめんなさい。良作でした。
ということで、せっかくの機会なので映画版を観た原作狂信者から、映画版「夏への扉」をニコニコ顔でおすすめしたいと思います。
時間旅行ものではなく……
物語は1995年の日本。
幼くして両親を失い、科学者の養父・松下に育てられた高倉宗一郎は、不慮の事故で養父母を失ってからも研究を続け、自立思考型のロボットA1を開発した。
愛猫ピートと松下の娘・璃子を家族のように大切に思いながら、A1の改良を考えていたある日、宗一郎は罠にはめられ、強制的に30年の冷凍睡眠(コールドスリープ)させられてしまう。
目覚めたとき、そこは2025年の東京。
研究、財産、時間、そしてピートと璃子を失った宗一郎の前に、冷凍睡眠後のケアを担当する「PETE(ピート)」と名付けられたヒューマノイドロボットが現れる。
「時間旅行もの」とされる本作で、私もはじめて読んだときはそう思っていたのですが、「時間」を軸にしたファンタジー+ミステリといった感じの作品です。
あと、「猫好き」の人が、ニヤニヤしたくなる「猫映画(小説)」。
主人公である宗一郎目線で時間が冷凍睡眠によりスキップして、時間転移装置で1995年に戻るという2度の時間の遷移があるのですが、どちらも基本的に「行ったっきり」で、しかも「タイムトラベル・タイムリープ」ものにありがちな、歴史の改変だったり、ループといったりといった要素が(ほぼ)ありません。
そのため、宗一郎が寝ていた30年の間に起こったことという謎と、璃子を助けたいという気持ちに見る側の興味がしっかりと集中していくので、原作未見の人でも置いてきぼりになることはありません。
主人公の宗一郎を演じる山崎賢人さんは抑えめの演技でありながら、世間知らずでまっすぐな研究者でほどよくカッコいいですし、宗一郎を慕う璃子の清原果耶さんは、ライバルとなる白石鈴役の夏菜さんとの対比で素朴な可愛さでこれまたイイ感じ。
また、PETEの藤木直人さんや、謎の人物・佐藤太郎の原田泰造さん、物理学者・遠井の田口トモロヲさんなど脇を固める俳優さんも、登場人物のそれぞれが存在感のある登場人物を演じています。
そして何より愛猫のピートですよね。とにかく登場するだけで和みます。
現代に合わせた改変が素晴らしい
今回の映画化では、舞台が1970年のアメリカから1995年の日本に改変されており、原作大好きな人は「うーん」と思っているかもしれません。
ですが、これが実にうまいんです。
何しろ原作は1970年と2000年のアメリカ。作品を発表した当初では近未来と遙かな未来ですが、2021年に今を生きる私たちにとっては2000年も20年も過去になってしまっています。
1970年のアメリカを知らないと分かりにくいことや、2000年のアメリカを知っているが上に未来のヒューマノイドロボットの技術がちょっと現実離れしていると気になってしまうことを、舞台を1995年と2025年の日本にすることで綺麗に解決しています。
また、小説の映画化ではどうしても描ききれない分量をうまくカットしてあり、テンポ良く物語が進んでいくので、原作の2000年に到着してから1970年に戻るまでのもどかしさがかなり軽減されています。
さらに、映画版としてはオリジナル要素の「PETE(ピート)」ですが、原作でいうと「勤勉ビーバー」のポジションで、冷凍睡眠から冷めた宗一郎のお世話をする看護・介護ロボットという位置づけですが、彼をバディにすることで2025年の世界をさっと案内できていて、これはうまいって思いました。さらに佐藤さんとの関係もやるなぁって感じ。
些細な不満はないわけじゃないのですが、それはもう本当に好みの部分。
物語の冒頭で三億円事件の犯人が捕まったという映像だけで、「これはパラレルワールドの日本ですよ」ということをさらっと表現していたり、遠井の存在を物語の添え物にしていなかったり、一つ一つが「映画」としての改変、表現が素敵です。
原作小説を読んでいなくても、いや、むしろこの映画を見て原作小説を読みたくなる人がいるくらいのニコニコになっちゃう作品でした。
おすすめですよ。
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おまけ 原作狂信者の戯れ言(ネタバレあり)
「夏への扉」が大好きで、娘にもすすめていたけど、映画版を見て、「あぁ、これはもう原作だけでは刺さらないやろうなぁ」と本気で思いました。
その反面、今回の映画の改変もそうで、小説には小説の見せ方が、舞台には舞台の、映画には映画の見せ方があるというのを改めて感じさせられました。
キャラメルボックスが2011年と2018年に舞台化しているんですが、そちらは原作に忠実にストーリーを構成していました。
もちろん、一発勝負の舞台では、ピートが大活躍するシーンなどは再現が難しいので、猫を役者さんが演じるという素晴らしい演出で見せていたのですが、これがなんだかおかしく見えなかったんですよね。ごつい俳優さんが、人間の言葉を喋りながら勇敢にベル(映画版だと白石鈴)と戦うシーンなんかたまらないです。
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そうそう、ベルを演じた原田樹里さんが、30年の月日を演技一つ(もちろんメイクや衣装もあるんですが)で表現するのに「お芝居って、俳優さんってすごい」と思ったのも思い出しました。
映画版、本当によくできていたんですが、映画の感想サイトで、「タイトルもそうだけど、なんで『夏』を推しているのかよく分からなかった」って書いているのがあって、確かに同感と。
あれは、だまされて1995年から2025年に冷凍睡眠かけられた宗一郎のそれぞれの時代での苦しさとかそういうのを「冬」って見せる表現が足りないからだと思っています。
冷凍睡眠に落ちるときに氷結していく表現くらいかなぁ、宗一郎での「冬」らしい表現は。
あと、ラストシーンでピートが窓越しに外を見ているときに、原作の一節をもって来なかったのは絶対にミスチョイスだと思いますね。
(略)
彼はいつまでたっても、ドアというドアを試せば、必ずそのひとつは夏に通じるという確信を、棄てようとはしないのだ。
そしてもちろん、ぼくはピートの肩を持つ。
そこと、1995年で2回目のコールドスリープに入るときの医師との会話を入れなかったくらいかなぁ、不満点は。
なんだか久しぶりに原作読みたくなってきた。
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