書く習慣

「書く習慣」深夜にラブレターを書いて朝に読む経験をみんなしてみるとイイと思う

書く習慣

元旦から10日間、こんな企画に参加していました。

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グラレコ

最近はブログを書くペースが極端に落ちていました。

色々と興味を持ったことに手を出していたり、ちょっと仕事の調べ物や作業をしていたり、まぁ色々だったんですが、何よりも「ネタがねぇ」という状態が一番強かった風に思います。

アウトプットするにはインプットが必要と思い込んでいたんですよねぇ。

10日間の投稿は短い時間で、1つのテーマに対して瞬発力で書くという書き方をしたので、内容も文章もあまり精査していません。これでいいのかなぁとも思っています。

そんなこんなで、「書く習慣」を読まずに企画に参加していたのですが、それもどうかと思ったので、電子書籍で購入。先週から仕事場が変わったので、行き帰りの電車の中で読んでいたら、おぉ「禿同」(激しく同意……もう死語やよね……)と思うことが結構あったので、書籍紹介ということで、ちらっと書いてみようと思います。

書く習慣

「書く習慣」は「好き」の塊だと思う

Amazonのレビュー欄に、この「書く習慣」のレビューで、

自己啓発ふくめどこにでも書いてあるような内容。
ライター(みたいなもの)に憧れるキラキラ女子にはちょうどいい

なんて書いている方がいて、あぁ、この方には刺さんないし、この方は書くことに「好き」がなさそうなんだなぁと思った次第。

文体の好き嫌いや、内容が刺さるか刺さらないかは本当にどうでも良くて、実際にウチもかなりさーっと読み流してしまったところもあるんですが、著者のいしかわさんが書きたいこととか、それが伝わる人がきっといる書籍だと思いましたよ。はい。

多分、ウチみたいに、もう書くことに何のてらいも無い人に向けたものじゃないので、いしかわさんが“あなたに向けて書きました”と書いてあるように、

「書きたい」「書くのが好き」だけど「書けない」人

に届いて欲しい本だと思います。

十代後半の頃のウチにならガチッと刺さる言葉が一杯です。

おじさんが昔話をするのは良くないんですが、ウチが十代の頃は「書く」という趣味はなかなか周りに理解されにくい趣味でした。「オタク」という言葉がネガティブな言葉の究極にあったような頃ですし、自身の書いた文章が届く相手は本当に狭かったなぁと思っています。

そんなウチにとって「書く習慣」がついたのは、黎明期のインターネットに早く親しんだからかもしれません。それでもなかなか書くことがなかったですね。でも、その頃のウチがこの本を読んでいたらきっとものすごく勇気づけられたことでしょう。

今はYouTubeやTikTokのような動画、インスタのような写真、ブログやTwitterのような文章でも自分が考えていることやりたいことを表現できるスペースが広大に広がっています。

「書きたい」「書くことが好き」って人ならば、「書く」ことはできる環境はあるんです。

でも、書けない。そんな「あなた」の気持ち、ウチにも分かります。だって、十代の自分がそうだったし、書けなくて消えていってしまった感情も、言葉も、もう自分自身でも思い出せない。だから、書いた方が良い。

50000年くらい過ぎるので今書こう。さっさと書こう。

本当に、そうだと思う。

「書く」ことは、「書きたい」「書くことが好き」な人種にとっては「好きの塊」なんです。ところが、その「好きの塊」は雪のようにあっという間に消えてしまう。だから、書いた方が良い。

別にブログやTwitterでなくても良いし、日記帳でも良い。ノートに書けば、その「好きの塊」は、自分の頭や心からは溶けても、そこには溶けずに残っています。

もしかしたら、自分の子どもがそれを読んで「お父さん(お母さん)、アホやなぁ」と思うかもしれないし、他の人が読んで笑ってくれるかもしんない。十年、二十年経って、自分が読んだら……それを読んだ人がどう受けとるかを気にするのではなく、せっかくだから自分自身の「好きの塊」を粗末にしないで愛でてはいかがか、なんて感じた訳です。

深夜に書いたラブレターに思うこと

このブログは2011年から書いています。

レンタルサーバーの更新を忘れて今のブログに移ってきたので、それ以前の全ての記録が残っていないのですが、インターネット上には十年以上前のウチの「好きの塊」が残っています。

たまに関連記事などで昔に書いた文章がでてきたり、ノートに書いた仕事のメモがでてきたり、Twitterだと数年前のツイートに♥がついたりするので、「おぉ!」と思ってしまいます。

その中でも、自分で読んでいて面白いなぁと思うのが、「好き」が漏れ出ている文章です。

たとえばこんなの。

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朝の4時近くまでキーボードを打っていたこれなんか、もう「好き」しか書いてないじゃないですか。でも、これ、自分自身が「書きたい」と思った「好きの塊」なんで、これでいいんです。

深夜に書いたラブレターなんて、朝読むとめちゃくちゃだから深夜にラブレターなんて書いちゃダメなんですよ。でも、その文章ってリミッターが外れた状態で書いてあるからめっちゃ面白い、いや、面白くていいのか……とにかく自分の「好きの塊」が惜しげも無く表現されているのが深夜のラブレターです。

今、読みたい自分の「好きの塊」があります。

20歳の自分が書いたラブレター。
3歳後輩のYさんに書いたラブレターが読みたいなぁと思うんです。付き合って欲しいと書いたラブレターと、その後、振られる直前に書いた悔しさやら恥ずかしさやら入り交じったラブレター。

覚えていることはどちらも深夜に書いたこと、朝、封筒の封を綴じるときに色々と躊躇った(だろうなあ)ってこと、それと「こんなこと書くんじゃなかった」と感じた後悔した内容の一部。

ところが、そこに書かれた筈の「好きの塊」はどうしても思い出せない。
後悔した内容は覚えていて、いつまでも自分を責めるけれど、純粋にまっすぐに「好き」と書いた言葉は全く思い出せない。

もうねぇ、この世のどこにもないあの「好きの塊」こそが、自分自身の最高傑作じゃないのかと思う(そんなことはないだろうけど)……そんな文章を読んでみたいんですよねぇ。
……本当にこの世のどこにももう存在していない、Yさんにこの文章が読まれないと思って描いてるけど、Yさんに伝わると恥ずかしすぎる……

ラブレターを公開しなくても良いから、自分の「好きの塊」を形にすることは自分自身しかできません。「書きたい」「書くのが好き」な人種、本を読んでいるといしかわさんも多分、ウチと同じようなそんな人種だともうんですが、同種の皆さんは、ぜひ「書く習慣」を付けて欲しいと思います。

好きな人、好きな本、小説、漫画、映画、食べ物……興味を持ったこと、嫌いだと思った感情、どんなことでも「書きたい」「書くのが好き」、でも「書けない」あなたが書くための気持ちを揺さぶる、そんな本でした。

この文章も誰かに届いてくれればいいな、でもウチは「禿同」と思ったので書いてます。そういう形であなたに伝えたい本でした。